西田シャトナー

【西田シャトナー インタビュー】誇り高き道を行け。【後編】

西田シャトナーは「演劇は未知の領域への冒険」だと言った。しかし、元来、人は未知なるものに恐怖を抱く生き物だろう。やったことのないもの、わからないものに対して、人は怖気づき、尻込みする。だが、シャトナーは道なき道も敢然と突き進む。その生き方は、将来に迷う若者たちにとって、ひとつの指針となるはずだ。

(Text&Photo by Yoshiaki Yokogawa)

親友の一世一代のオファーに応えたくて、演劇を始めた。

西田シャトナー10――そもそも演劇を始めたきっかけは何だったんですか?

旗揚げしたのは、大学時代、親友だった腹筋善之介に誘われたからです。それまでそこまで演劇に興味はなかった。と言うよりも、正直、今もあまり興味はない。

でも、そんなことは問題じゃないんです。自分が親友だと思っている男が、お互いの人生を棒に振るかもしれないことを覚悟の上で、一世一代のオファーをくれた。そこが、僕にとってすべてだったんです。検討することさえ無礼だと思った。YESかNOか。1/2の確率でYESと言っただけです。

もちろんNOと言っても良かった。ただ、その代わり、NOと言った以上、後で面白そうだからと便乗するわけにはいかない。YESと言った場合も同じです。YESと言った以上、演劇を辞める時は死ぬ時だけ。この約束を違えたら死ぬという覚悟を決めて、彼のオファーに応えました。

――「惑星ピスタチオ」の解散は2000年。合計すると四半世紀もの間、演劇をやってきたことになります。

僕は演劇の前からずっと折り紙をやっていて。今でも自分に演劇の才能はあるとは思ってないし、演劇が面白いから続けているという意識もない。ただ、そんな自分の適性とは全然違うものをやるにあたって、自分の信じる世界というものをブラさずにやってこれたことは良かったと思います。やっているうちに、自分の信念がブレそうになった時は確かにあります。でも、僕はブラさなかった。頑固と言われるかもしれないけれど、決心したことは変えたくないんです。たかが数十年の人生なんだから、その間くらいは持つような魂の入った決心をしたい。そう思ってるんですよ。

――シャトナーさんはなぜそんなにブレないんでしょうか?

子どもの頃からの性格ですね。何か体験があったからというわけじゃなく、もともとそういう子どもなんだと思います。ただ、それは欠点でもあるんです。

――欠点?

僕はとにかく周りの人たちの気持ちがわからない子どもでした。どうしても周囲と上手くやっていくことができない。いや、やっていけると言えばいけるけど、それは「こういうことをすれば仲良くなれる」とか「こうしたら怒られない」といった数学的計算のものでしかなくて、まったく僕の望みじゃないんです。とにかく僕自身はずっと孤独で、ずっと辛かった。それは小さな頃からはっきりと感じていましたね。

高校時代が、いちばんキツかった。

――高校生の頃はどうですか? シャトナーさんはどんな高校生でしたか?

いちばんしんどい時期でしたね。あの頃は一生懸命外につながろうとした分、特に辛かった。高校生ぐらいの頃って、将来の職業だったり、自分が社会の中でどうやっていくのかだったりが関わる大きな時期。両親も「もっとこうしろ」ってすごく干渉してくるじゃないですか。でも、納得のいかないものには戦わざるを得ないし、従おうとするとしんどい想いをするし。本当に、いちばんキツイ時期でした。

――親御さんはどんな方だったんですか?

僕の父親は医師でした。社会的地位にしか興味がなくて、息子である僕にも「医者か弁護士になれ」とばかり言ってましたね。医者と弁護士なんて全然違う職業なのに(笑)。僕の適性なんて一切関係ないんです。たとえば、高校の頃、僕は物語や作品をつくることにおいて、校内では突出した才能があったと思うんです。だけど、それすら父は見抜くことができなかった。と言うより、見抜くつもりがありませんでした。どんな才能や適性も身近な大人が応援してくれれば信じられるし、逆に認めてもらえないなら自分で自分の能力を疑ってしまう。そういう大人がいちばん身近にいるのはとても辛いことでしたね。

――そういう圧迫の中で、いつから大人の言うことを聞かずに誇り高い道に進もうと思えるようになったんですか?

その頃からもう自分の中でそういう気持ちはずっと育てていましたね。母は心配して見守ってくれていました。僕を応援してくれていたと思います…。ただ父親の力はやっぱり大きい。経済的な基盤を失う危険と今の自分の生活を秤にかけたら、今はしばらく親の言うことを聞いて力をためていくしかないと思った。

思春期の何が辛かったと言えば、親の言うことを聞かなきゃいけないことだけじゃなくて、進むべき道を邪魔されながらも自分への観察を怠らず成長させていくことがしんどかった。当時の僕は本気で漫画家になりたかったんです。今すぐここを出て、働きながら漫画家の修行をする選択もないわけじゃなかった。でも、それが今は得策だと思えなかった。両親の後ろ盾を失うか、バックアップされながら自分を騙しつつ力を磨くか。結局、僕は狡猾な後者を選択したわけです。それは、とてもしんどかったですけど。経済的には楽だから文句言えませんね。

――だとすると、演劇を始めることにも反対されたんじゃないですか?

そもそも医師にならないという選択自体がまったく賛成されませんでした。

僕は、劇団を結成した後に大学を中退したんです。劇団をやる以上、絶対に成功させなきゃいけない。だけど、自分に才能があるなんて思えなかったわけですから、寝食を忘れて24時間365日頑張るしかない。それはもう何より明白なことだったんです。

でも、父はそう思っていなかった。僕の決めた選択に、がっかりしていましたね。でも、僕からして見れば、この大切な時期に大学に行けと言う人に正確な判断ができているとは思えないわけです。いくら考え方が違ったとしても、たとえ僕の幸せを望んでいたとしても、それは僕にとっては愚かな考えでしかない。だから、どうしても聞くわけにはいかなかった。

――その決断は迷いませんでしたか?

いろいろ考えましたよ、親孝行って何だろうとかね。でも、僕が生まれた時、親はどんな姿でもいいから生まれてきてくれたことに喜んでくれたはず。めちゃくちゃ嬉しかったはずなんですよ。だからもうその時に僕の親孝行は終わってるだろうって思った。あとは僕が幸せになるかどうかの問題。だから、父親の言うことを聞くわけにはいかなかった。

きっとあの時が、父親が僕を理解できるかどうかの最後のチャンスだったんです。でも父親は僕を理解できなかった。だったら、仕方ないけど辛抱してもらうしかないんだって、僕も腹を括りました。

――やっぱり強いですね。

強くなんかないです。強かったら、もっと15歳くらいに決断してますよ。弱かったから、そこまで時間がかかったんです。

――最後に決断できたのは何かあったんですか?

弟や妹たちですかね。弟妹たちはいつも「うちの兄貴はすげえ」って言ってくれてた。弟妹の応援がなかったら決心できなかったかもしれません。

――お父様はシャトナーさんのお芝居はご覧になったんですか?

来てくれましたよ。旗揚げ公演にも招待しました。でも、全然わかってなかったみたいです。ただ、観客が多ければ喜んでいました。

信じた道をまっすぐに進め。

西田シャトナー4――恐らく今の高校生の中にも部活自体を親御さんから反対されている方もたくさんいると思います。

僕も言われましたね、「勉強っていう学生の本分をちゃんと達成したら部活はやっていい」とか。でも、僕は学生の本分以前に若者の本分があると思うんです。

――若者の本分、ですか?

学校に行くことが学生の本分だなんてばかばかしい話ですよ。学生なんて年をくってからでもできるけど、若者でいることは若い時にしかできないこと。もちろん特に自分の行きたい道がないなら、安全装置として学校に行けばいい。でも「今行ったらあかんな」と思うなら行かなくてもいい。その代わり、その選択はすごく大変ですけどね。

――社会のシステムから外れるリスクもありますから。

実は僕のいとこが、わりと売れっ子の小説家なんですよ。でも、彼が「小説家になる」と言い出した時、周りのみんなが反対した。僕にも引きとめてほしいと相談があったくらいです。両親も親戚も誰も見抜けなかったんですよ、彼の才能を。見抜けるのは彼一人だけだった。

僕が止めなかったのは、何で冒険しようとしている人を止めなきゃいけないんだと思ったから。確かに従兄弟だけど、それほど親しかったわけでもないから、彼に力があるかなんてわからない。わからないものをわからないのに止める理由が僕にはわからなかったんです。

――恐らく、今、同じような境遇にいる高校生はたくさんいるでしょうね。

もちろん、だからと言って信じる道を行ってもダメだったって人は山ほどいます。成功例だけ参考にさせるつもりはありません。でも、僕自身は、やったらいいんじゃないかって思いますけどね。

――みんなそこで一歩踏み出す勇気がなくて迷ったり悩んだりしているんだと思います。

それはもう誇りを持つしかないですよ。少なくとも僕にとっては演劇をやりたいとかやりたくないとか、そんな階層の話じゃなかった。友達のオファーを絶対に断らないとか、愛すると決めた人は絶対に愛するとか、そういう根源的なものが僕の人生の基盤にあるんです。

――だからここまでやってこれた。

ここ数年はマシですけど、僕だって芝居をしている年数のうち半分以上はお金なんて全然なかった。住むところもなければ、インスタントラーメンも買えない。そんな時期はいくらでもあります。だけど、仮にそうなったとしても悔いがないくらいに誇り高い道を、僕自身は選んだんです。

今の若者にも「やりたいことやれ。そしたら成功する」なんて甘いことを言うつもりはありません。失敗しますよ、半分以上。下手したら100人中90人以上は失敗するかもしれない。それでも、やるしかない。納得いくような作品をつくるしかないんです。誰かの言うことを聞いてる場合じゃない。僕だってそうです。今は離れ離れになっている友達と絶対にまたいつか一緒に楽しい仕事がしたい。そう思って、今も頑張っているんです。

PROFILE

西田シャトナー■西田 シャトナー

1965年 大阪府生まれ。作家・演出家・俳優・折り紙作家。

幼少時から折り紙については天才的な才能を発揮し、小学生時代に大人たちを相手に折り紙講習会で講師を務めるほか、折り紙専門誌にも「天才少年」としてとりあげられた。高校時代から自主映画制作に傾倒し、学校文化祭で脚本・監督した15分のパロディ映画(8ミリ作品)は、学内で圧倒的に面白いと評判を呼び、全校生徒数570人に対し1000人以上の動員を記録した。90年、神戸大学在学中に、腹筋善之介、平和堂ミラノ、保村大和、佐々木蔵之介、遠坂百合子、プロデューサー登紀子らとともに、劇団「惑星ピスタチオ」を旗揚げ。映像でなければ不可能だと思われる壮大なSF的アイディアを脚本に盛り込み、奇抜な演出アイディアとパワフルな俳優の演技を駆使して表現した。演劇の可能性を広げるその演出手法は、観客からの支持を得、後の劇団たちに影響を与えた。やがて劇団の一公演での観客動員数は2万人に達するが、2000年に解散。解散時のメンバーの中には、現在演出家として活動する末満健一(ピースピット)などがいた。

現在は西田シャトナー個人として演劇活動を続ける中、物語と俳優の演技だけで、荒唐無稽な光景を舞台上に描き出す手法をますます磨き抜き、新しい演劇作品を世に送り出し続けている。

また個展活動を始め、折り紙作品の制作も本格化。一枚の正方形から切込みなしで、精密な生物を折りだす作風は、折り紙界でも高く評価されている。

 

○公式twitterアカウント:@Nshatner

○西田シャトナー演劇研究所 公式ホームページ:http://www.n-shatner.com/

○西田シャトナーオフィシャルブログ:http://blog.livedoor.jp/nishidashatner/

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